ワカモノ気質と斎藤佑樹
「斎藤佑樹は何か持っていると言われつづけてきました。今日、何を持っているか確信しました。」
プロ入りで更に話題を集めていますが、(昨年の話ですが)斎藤佑樹の言葉になんともいえない気持ちを覚え、気になり久し振りに中野翠さんの『斎藤佑樹くんと日本人』を図書館で再度借りて読んでいます。甲子園の死闘が蘇ってきて、何故か清々しい。中野さんの捉え方って共感することが多く『小津ごのみ』でも、なるほど、うん、うん、と頷きながら読んでいました。この本では、ワカモノ気質にも言及していて、これだったんだネ、という内容がありましたので、ちょっと引用してみますね。
会話の内容よりも、会話の間と空域の方が重要視されているとしか思えない。それは、人と対立することや気まずくなることを怖れる気持ちが強いからだろう。硬い言葉で言えば「同調圧力」というものを感じているからだろうか。これだけ「座持ち」言葉が氾濫しているということは、それだけ「同調圧力」の強い世の中になっていることだろうか。(中略)なぜ、そんなに友人関係の中でピリピリ、チマチマと神経を使わなければいけないのだろうか。自分が突出しないように気を配り、YES・NOを曖昧にする。妙に内向き日本人ぽさが強まっているかのようじゃないか。
ここ二年ほど、二十代から三十代前半ワカモノたちと仕事を続けていましたが、そのワカモノたちのメンタリティについて、大いに疑問があり、その謎が解けたような気がします。自分がどうであれ、自分がどう見られているかという部分を気にしている。そのために、意味のない会話を延々と続けている。よくまぁ、これだけの話題が出てくるもんだと、感心するというか呆れていました。でも、それもこれも他人との関係が外れてしまうのが怖いんですね。何かやどこかに所属していないと不安でたまらない感覚。だから、内容がなくても会話が続けてられるんだね、きっと。誰かをちょっとイジッて、イジラれた当人もさほど抵抗することなく、ルーチンが進んでいく。ケイタイやメールやモバゲー(いやな言葉ですね、これは)があれば、なんとなく誰かとつながっているような幻想。それでいて、結構スマートなんですね、私なんかに対しては。
自分が同年代だった頃はどうだったか、最近思い出そうとしている。
それにしても、斎藤佑樹のキャンプ地でズカズカと押しかけ、目の前にケータイを向けて写真を撮っているおばちゃん達、どうにかならないのかなぁ。ホント、見苦しいですナ。
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