1Q84が1984なら今は200Q
月曜日から読み始めた『1Q84』。BOOK1は月〜木夜。BOOK2は、昨夜から一気に今朝まで読んでしまいました。手探りで読み始め、BOOK1のP.70以降、ぐっと胸元を掴まれたような感覚を覚えました。
本を読み続けることはどんなことだろうかと考え続けていました。
活字から眠っていたイマジネーションを揺り起こされてくると、物語よりもセンテンスの端々が響いてきます。どこかにしまい忘れた記憶が蘇ります。父親の自転車に乗って出掛けた時、流れていく風景。キャッチボール。父親に言いにくいことは母親経由で話をしてもらったこと。帰省で帰る時玄関で見送る母親の表情。小学校はいつも手をつないで通学していた妹をちょっと自慢していた。病室で日増しに小さくなっていく母とじっと見守る妹の姿。回転式シーソーに巻き込まれて怪我をした園児に照りつける夏の太陽。郵便局の無人倉庫に毎週侵入する少年冒険団。大学の先輩に騙されてヌード写真を撮られて泣いている同級生の子。あまりにも突然に様々なことが重なり喪失してしまう夏の終わり。
ここにいてここにいない感覚。
本を読んでいると自分がどこから来てどこへ行こうとしているのか知りたくなります。音と音の隙間にある空気の振動が心に震えを呼び起こすように、言葉と言葉の隙間から忘れていたことを知ります。抑制のほとんどない「ふかえり」の言葉に惹かれてしまったこの一週間。何故か、ドノヴァンを聴き始めています。
ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう...
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