村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を一気に再読し、『辺境・近境』も読み
見つけた文章に今の日本の現状を投影してしまう
加納マルタ・クレタ、皮剥ぎボリス、笠原メイ、赤坂シナモン...と魅力的な脇役が次々と登場する『ねじまき鳥クロニクル』のハイライトは、満州やノモンハンのシーン。ロシア将校皮剥ぎボリスとモンゴル人の残虐な行為や動物園での虐殺。小説がきっかけがありマルコポーロ誌の取材で訪れたノモンハンの話は、『辺境・近境』に収められています。文章で膨らんだイメージは同じタイトルの写真集でも確認できます。
福島の子供たちへの残虐な行為、文部科学省や厚生労働省の卑劣な行動(原発事故以降ですら安全を触れ回るパンフレットを作成・配布 パンフレットをダウンロード)、もはやアレバのセールスマンに成り下がってしまったわが国の首相。東京にも降り注ぐ放射能、逃げる場所も食物も選べない私たち。Twitterで良心的な書き込みとメディアが報じる悪意との落差。正しいことを正しいと言えなくなっている現実。『辺境・近境』の中の文章は15年前の出展ですが、今も昔も変らず、かえって巧妙に悪くなってきていることに、恐怖を覚えます。少し長いのですが、引用してみました。あとは、個人個人が見えない敵とどう戦っていくか、そんな段階にもうきていることを強く意識しています。
戦争が終わったあとで、日本人は戦争というものを憎み、平和を(もっと正確にいえば平和であることを)愛するようになった。我々は日本という国家を結局は破滅に導いたその効率の悪さを、前近代的なものとして打破しようと努めてきた。自分の内なるものとしての非効率性の責任を追及するのではなく、それを外部から力ずくで押しつけられたものとして扱い、外科手術するみたいに単純に物理的に排除した。その結果我々はたしかに近代市民社会の理念に基づいた効率の良い世界に住むようになったし、その効率の良さは社会に圧倒的な繁栄をもたらした。
にもかかわらず、やはり今でも多くの社会的局面において、我々が名もなき消耗品として静かに平和に抹殺されつつあるのではないかという漠然とした疑念から、僕は(あるいは多くの人人は)なかなか逃げ切ることができないでいる。僕らは日本という平和な「民主国家」の中で、人間としての基本的な権利を保障されて生きているのだと信じている。でも、そうなのだろうか?表面を一皮むけば、そこには以前と同じような密閉された国家組織なり理念が脈々と息づいているのではあるまいか。僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない。この五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか・僕らの抱えているある種のきつい密室性はまたいつかその過激な圧力を、どこかに向けて激しい勢いで噴出すのではあるまいか、と。(ノモンハンの鉄の墓場 1994/9-11)
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。