ネオン・パークとローエル・ジョージの関係ってどのようなものか気になっていましたが、最近図書館から借りてきた『レコード・ジャケットという神話』にかなり詳しく書いてあり一気に読んでしまいました。
ネオン・パーク(本名マーティン・ミュラー)はテーマ・パークを作る仕事を手がけ舗装した道路にネオンを飾り付けた。それをネオン・パークと名付け、それ以降自身もネオン・パークと名乗るようになりました。ローエル・ジョージがリトル・フィートを結成する前に、マザーズ・オブ・インベンションに在籍しその様子は『Weasels Ripped My Flesh(イタチ野郎)』で聞くことができますが、そのジャケットのイラストを描いたのがネオン・パーク。本を読むとフランク・ザッパからの紹介ではなく偶然に近い出会いをしています。出会った二人は意気投合しお互いに深い影響を与えていたらしいです。《ネオン・パークの作品は、人間の潜在意識や感情をパロディ化することに終始していた。ローエル・ジョージのジョークは不可欠だったのだろう》とラス・タイトルマンのコメント。
ラス・タイトルマンといえば、ライ・クーダーやリトル・フィートのファーストアルバムのプロデューサー。アルバム・ジャケットもラス・タイトルマンの姉スーザンがディレクション。当時、リトル・フィートのアルバムの入手が難しく輸入盤を通信販売で買っていました。リトル・フィートの評価はセカンド『Sailing Shoes』からですが、私にとってはようやく手に入れたファーストも忘れられないものです。ラス・タイトルマンの姉スーザンはテディ・ベアのマーシャル・リーブのガールフレンド。あのフィル・スペクターのガールフレンドはスーザンの友人。そんなワケでテディ・ベアのリハーサルはラス・タイトルマンの家で行われています。
その他、リトル・フィートがリハーサルをしていたバーバンクのスタジオの話とか興味深い記述が色々書いてあります。いままで、音楽を聴きながら色々想像していましたがようやく色んな事がつながってきます。ラス・タイトルマンがワーナーの契約を薦める頃に、ローエル・ジョージとビル・ペインはレニー・ワロンカーのオフィスによく出入りしていて、そこにはブライアン・ウィルソンも現れる。おそらくそのつながりでバン・ダイク・パークスのレコーディングに呼ばれ、リハで弾いた採用された曲が「Sailing Shoes」になるというワケです。
リトル・フィートはニューオーリンズのリズムを取り込みファンクに近づきフュージョンまで行ってしまいローエル・ジョージの比重が低くなっていきました。これはローエル・ジョージの体調の問題もあったと思います。個人的には3枚目の『Dixie Chicken』あたり迄が好きです。ここ2週間は結成30周年のボックスセットを聴いていますがやはり『Last Record Album』迄の曲を繰り返し聴いています。また、ライブのブートもよく聴きますが、インターネットで公開されているライブ音源もDLしています。古いところでは73年からありますので、73〜75年の評判のいいライブを選んで、当時のスタジオでは収まりきれない姿を聴いています。(他にグレートフルデッドの音源も無数にあります)
ネオン・パークは83年にADL(筋萎縮性側索硬化症)に発病、93年9/1に亡くなりましたが、作品集に『Somewhere over the Rainbow: The Art of Neon Park』があります。リトル・フィートのジャケット以外の幅広い作風が楽しめますが個人的には、マザーズ含む初期の作品にインパクを受けます。(PowerBookのデスクトップはイタチ野郎にしています)
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