今はなきレコード店
お茶の水、聖橋を渡り神田明神へ向かう坂道のたもとにあったラテン・レコード専門店に、私はよく通いました。今は、閉店してしてしまい、その閉店のいきさつ等は知るすべもありません。ラテンのレコードだけじゃ食べていけず、競馬で稼いでいると、硬派の店主が語ってくれました。ファニアのレコードを初めて日本に紹介したという噂のその店に入ると、音楽のかわりに短波放送が流れていました。バミューダ・ショーツにビーサン、そして、ランニング。ぼうず頭に黒縁の眼鏡。耳には赤鉛筆。
どう考えてもラテン・エレガンスとは考えられない状況に、初めての人は思わずたじろいでしまいそうです。極度に緊張を強いられる店内に入る前に、必ず同じ階にあるトイレに入るのですが「ビル利用者以外使用を禁ずる!!」等となぐり書きしてありました。ラテンの道も険しいものだと用を済ませ、店内に入ると身も引き締まる思いです。友人が私の話を聞いて、恐いもの見たさで行き、緊張のあまり「タブー・コンボはありませんか?」等と質問をしてしまったから、さあ大変!。とうよう氏の悪口からラテンの歴史まで三時間も説教されてしまったらしいのです。うかつな事は言えません。
そんな訳ですから、ある意味では異様な、ある意味では正常な店で、いつもポツンと密かに置いてあったレコード(当時=79年はレコードしかなかったのだよ)を手に取り、と恐る恐る尋ねました。
「これはどうですか?(^^;;;;;;;;」
あらら、何も言わず袋に入れるじゃありませんか(^^;。ただ聞いただけなのにぃ〜。当惑する私に向かい一言、
「基本です \\(;^キッパリ^;)//」
家に帰り問題のエラディオ・ヒメネスのソロ・アルバムに針を下ろすと、A面はボレロ、B面はサルサと見事に分離した、今思えば(当時は分からなかった)美しい展開に身も震えてしまいました。慌ててクレジットを見ましたが、
Produced By : Harry Maldonado
Executive Producers : Jerry Masucci And Tony Conga
Photo By : Ed Fernandez
とだけありました。アフロ・ヘアーに不精髭、ストライプのシャツを着てポーズをとるものの、何故か虚ろな目。ボビー・バレンティンに曲を提供したり、インパクト・クレアに在籍していた事を知ったのは後からでした。暗く沈むトーン、決してむくわれない恋でも唄っているのでしょうか。明るい未来等は微塵もない唄いぶりと、熱帯夜のやるせなさに溢れたサウンドに、ひつように入るハイハット。今まで、聞いてきたサルサとは一線を引くような、絶対に昼間は聴いてはいけないサウンドに日増しに引かれてしまいました。在籍したインパクト・クレアは麻薬患者構成として結成されたとも聞きます。氏のジャケットで虚ろな視線もそのせいだったんですね。その後コカインで死んでしまったという噂も、妙に納得してしまいました。
プエルトリコ・サルサの暗黒の証人として、心に留めて置きたい人を急に思い出してしまいました。
ELADIO JIMENEZ / ELADIO JIMENEZ (NUESTRA 103) 1979
AFUERA / BOBBY VALENTIN (BRONCO 104) 1976
IMPACT CREA / IMPACT CREA (VAYA 51) 1976
94/5/1 NiftyのフォーラムへUPした文章です。
今思うと、30年前の当時は、ラテン関係では上記の「ラテンコーナー」、恵比寿〜中目黒の「ディスコ・マニア」、ロック系なら吉祥寺の「ジョージア」「芽瑠璃堂」、青山の「パイドパイパーハウス」...個性的なレコードショップがたくさんあったものです。そういえば、20年前に、神田の中古レコード店の店先で「ディスコ・マニア」の看板が捨ててあったのを目撃した時は複雑な気持ちでした(^^;
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エラディオ・ヒメネスの事を改めて色々調べてみると、Facebookに投稿を発見。長年謎だったことも解明できたので抜粋訳して紹介。
エラディオ・ヒメネス・サンティアゴ(Gulembo)は、1943年3月14日、プエルトリコのフンコスにあるバレンシアーノ地区で生まれました。ブラボー歌手、作曲家。インパクト・クレア、オルケスタ・ラ・ドミナンテや自身のバンドに参加。
このアフロ・カリビアン音楽のほとんど記憶にない人物の生涯と経歴は、彼がIstmo Pops.レーベルからリリースされた1973年のアルバム『Quien』(Orquesta La Dominante)など、いくつかのオーケストラに参加していること以外はほとんど知られていない。このアルバムには、エラディオが作曲した「El Mismo Pago」、「Mírala Donde Va」の2曲が収録されています。
1976年、フランキー・エルナンデスと共にインパクト・クレアに参加し、ボビー・バレンティンがバヤ・レコードでプロデュースした同名のアルバムに収録された。ここで「Pronóstico」と「En Tiempo De Jibarito」を作曲し、歌っていた。
1979年、唯一のソロ名義アルバム『Eladio Jiménez』のほとんどの曲を作曲・演奏。すべての音源は、すでに「Impacto Crea」でヒメネスと組んでいたベーシストのハリー・マルドナードがプロデュースし、エグゼクティブパートはジェリー・マスッチとプロモーターのトニー・コンガがプロデュースしている。
母に捧げた「A Carmen Santiago」、「Jesucristo」、「Homo Extraño」、「No Puedo Estar Contigo」、「Preocupación」「Mírala Donde Va」(新バージョン)、「Dueña De Mi Amor」、大ヒット曲「Porqué Te Empeñas」は自作曲です。
1984年11月12日、プエルトリコのカグアス、レクレオ広場で口論になったヒメネスが135の刺し傷で殺害されたのは残念だった。エラディオは、この島で麻薬の売人とトラブルがあったと言われている。偶然にも、その10年後に息子も同じ場所で殺されている。
音楽界のスターが、ストリート系とのトラブルに巻き込まれ、そのキャリアに終止符が打たれるケースは、悲しいかな、よくあることです。このエラディオ・ヒメネス氏の事件は、まだ始まったばかりだった。
Jhonatan Nuñez 著
La DominanteのLP/CDは残念ながら未入手。幸いなことにYouTubeにUPされているのでここに紹介。長い間ドラッグで死亡したと思っていたが、ドラッグのトラブルで殺害されていたとは。とてもやりきれない気持ちでいっぱいだ。
(2022.1.9 追記)
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